2012年10月26日金曜日

晩秋の献立会議 ~青山料理長に感謝を込めて~


今日は恒例の献立会議。青山料理長と素材の話しをしながら、様々なアイディアを出す。実際に作ってみたものを写真に撮影したり、試食を繰り返したりと私個人的にはとても好きな仕事のひとつです。
小さな修正や今までやった事がないオペレーションなどに挑戦してみたり、本当に料理長には苦労を掛けています。
今までこの時間を料理長と何度となく共にし、自分達のベストを尽くす。お客様と接している時とは明らかに違う緊張感が厨房に漂います。生みの苦しみと言えば大げさですが、やはりできあがった時の喜びは変えがたいものがあります。

撮影の合間には、決まって息子の趣味や進路の話しをする。自分にはでき過ぎた子供達だと、優秀な成績をあげるたびにうれしそうにしている。そんな何気ないコミュニケーションの場でもある。

そしていつもこの献立を作っている時に実感する「仕事への情熱」。今、まさに職人として熟成期を迎えようとしている料理長の様子は、この晩秋の蔵王のごとき輝きと山のようなおおらかさがあります。
彼自身もいつの日かその葉を大地に落とし、土に還る時が来るでしょう。そしてまたこの蔵王という大地を育むのだとすれば、彼が今まで残してきた料理人としての足跡はあまりにも大きい。
これからも力が尽きるまで、峩々の厨房を守って行って欲しい。そしてまた来月も再来月も来年もずっと、献立会議を続けていきたい。
青山料理長、いつも本当にありがとう。


2012年10月23日火曜日

秋の防火訓練

恒例の防火訓練を実施致しました。
火災は絶対にあってはならない事です。しかしながら訓練を重ね、万が一に備える事が大切なのだと毎回考えを新たに致します。
蔵王国定公園の中に住む者として、しっかりとした防災・防火の知識とスキルそして志をもって生活していきたいと思います。

2012年10月21日日曜日

第一回 小竹浜フェスティバル


東日本大震災後、継続してお伺いしております宮城県石巻市小竹浜。
今回からは被災地支援という枠を超え、楽しい時間を共有するイベントを開催してまいりました。

ずっと、このブログを読んで頂いているみなさんはご存じだと思いますが、まずは私ども峩々温泉と石巻市小竹浜との関係からご説明したいと思います。

東日本大震災で壊滅状態になってしまった宮城県石巻市に小さな漁村があります。

震災後、私どもの旅館では定期的に住民の皆さんを旅館にご招待させて頂いております。

東日本大震災によって、当館も大きな被害が発生致しました。
地震による道路の破損、燃料不足による除雪不能、停電の長期化による温泉管及び水道管の凍結・破裂、従業員の出勤不能、原発事故等々の問題。
峩々温泉は震災翌日からゴールデンウィーク直前まで休館致しました。
そんな中で一番早く業務を再開できると判断したのは、他事業を展開しておりますハム・ソーセージの製造だけでした。
当時は物流も完全に停止している状態ですので、宅急便業者が復活したら一斉に発送できるものを考えました。
「がんばろう!!宮城 チャリティボックス」とし、売上の20%を義援金として現地に送る仕組みです。
諸経費につきましては全額峩々温泉が負担することに致しました。
なぜなら義援金の行き先不明や経費計上など、当時問題になっていたような余計な詮索はされたくなかったからです。
旅館で実際にご提供しております「ひとめぼれ 一等米 3kg(宮城県柴田郡柴田町産)」やお茶、また自社製造のハム・ソーセージレストランによるパウンドケーキ、自家製ドレッシング、超熟成 ロースハムスライス(宮城県産:宮城野Lポーク使用)、豚バラベーコンスライス、ソーセージ2パック。
とにかく旅館が40日間休館しておりますので、従業員の雇用を確保しなければならない。
そう思った私は、全てのスタッフを集めこのチャリティボックスを販売する趣旨を伝えました。
おかげさまで延べ600名以上の方々にご賛同頂き、従業員の雇用・給与の支給と被災地ボランティアの活動資金を捻出することができました。
チャリティボックスをご購入の方にだけ、我々のボランティアに関する活動報告会を行うことにいたしました。
全国各地から駆けつけて頂きました皆様に、心から感謝の気持ちを伝えました。
当日、小竹浜にいらしたボランティア組を含む20名以上の方々にお集り頂きました。
今回も素敵な落語を披露して頂きました三遊亭遊馬師匠と後援会長にはチャリティボックスをご購入頂きました関係でお集まり頂き、その時初めて自己紹介させて頂きました。
夕食後、談話室にて様々な話題でたいへん盛り上がりました。
みなさんの意識の高さ、思いの深さを感じました。

①峩々温泉における震災被害のご説明
②休館時の対応
③ボランティア活動の報告
④今後の支援に対する方向性
⑤原発事故による風評被害の実情
私からは以上5点を報告させて頂きました。
その場所に遊馬師匠もいらっしゃいました。
師匠は避難所で絵本の読み聞かせをするという、大変ユニークなボランティアをされてました。
通常の10倍ほどに拡大した絵本をあの迫力満点の語り口で、時には優しくささやくように、一文字一文字を心を込めて伝えています。
翌日も被災地を回られ、沢山の子供たちと触れ合ったそうです。
後日、自らの活動に協力して頂けないかお願いをしてみました。
小竹浜の皆さんに笑いを届けたい。師匠の高座を聞かせてあげたい。様々な話の中で、そう思いました。

そして、こうやってその思いは現実となりました。
人の思いと言うものは、何かのきっかけを始点に加速度を増します。
その気持ちが折り重なり、大きな力となって目の前に感動の渦をつくります。
とてつもない力が、文字通り人間の原動力になるのです。
人間は何か必ず役割をもって産まれてくると言われています。その役割を全うするために、自らの意思で一生を掛けるけるのです。
どうやって生きていくかを真剣に考えた時、今ま一生懸命やってきた事がこんなにも素敵な時間となってかえってくることなど本来考えられないでしょう。

思いが叶う瞬間。人は原点に立ちかえります。そしてこう思うでしょう。
そうか!今まで頑張れてこれたのはこの日のこの時のためだったのかと。
そして、この人達に出会うために沢山のプロセスを踏んだのだと。
それそれの思いを乗せて、この大漁旗のごとき小竹浜という大きな家族と共に素晴らしい時を過ごす事ができました。
宮城県石巻市の牡鹿半島に「小竹浜」という小さな漁港。
現在の人口は82名、平均年齢が70歳を超えているような所です。
街に暮らす住民の主要産業はほぼ全て漁業で、主に牡蠣の養殖やシャコエビ漁などが盛んでした。現在も少しずつ海底の瓦礫撤去、水質の検査などをクリアしながら漁を復帰させております。

こちらとはこの震災を経て、また深い絆で結びついたような気持ちでおります。
私が幼い頃に通っていた川崎小学校青根分校と小竹小学校は交換会を行っており、夏休みになると3年生以上の子供はこの街にホームステイに行きます。
漁船に乗せて頂いたり、網を引いたり海で泳いだりしました。
逆に冬は海の子達を山の温泉街がみんなで迎え、スキーを教えるという会です。
当時はテレビ局などのマスコミに取材されたりして、結構注目されていたイベントでした。
歓迎会でふるまわれたライスカレーとスイカ。立ち泳ぎを教えてくれたおじいちゃん校長先生。船酔いの薬として出された梅干し入りの番茶。初めて食べたマンボーの刺身。鼓笛隊の行進曲にあわせて、住民全員で歓迎してくれる。真っ黒に日焼けしたシワの深いおばあちゃんは、麦わら帽子をこちらに向かって振っている。
磯の香りがあの頃を思い出させます。まさにあの思い出はいつどんな時でもカラー映像となって鮮明によみがえります。
その後は年賀状のやりとりなどを数年行なっておりましたが、ご無礼ながらいつの間にか疎遠になっておりました。
震災当初に伺った時は電話も通じず、道も充分に通ることがやっとの状態でしたので、本当に小竹浜の皆さんが無事である確信も無いまま現地に物資を運びました。
考えてみれば、25年ぶりの小竹浜でした。到着し、私の小竹浜支援の大きな原動力になっているちょっとした出来事がありました。
当時ホームステイさせて頂いていたお宅の勝俣かあちゃんが、私に会うなり「あら竹ちゃん大きくなったね」とすぐに名前を呼んでくれました。
うれしかったです。行って良かったと心から思いました。
震災の3日前に式を挙げた妻も同行させ、結婚の報告もすることができました。

こちらの小竹浜では、行方不明者0人でした。
他の地域では考えられない事だったそうです。
それは、誰がいないかすぐわかる近所付合いをしているからです。
生き残った理由は、津波を想定した訓練を年に何度も行っていたからです。
なんと炊き出しの訓練まで全住民参加で行われている。飲料水もちゃんと蓄えている。
渡波から細い山道を通って行かなければならないこの場所は、震災当時完全に孤立してしまったそうですがこの住民たちは強かった。
いつでも津波を想定して日々暮らしている。そして、死への恐怖心を互いへの思いやりにかえているのです。
さらに驚きなのは、現在避難所になっている旧小竹小学校(現在のコミュニティセンター)には自分専用の毛布がちゃんとキープされている。
そして究極は、体育館と集会場に敷くための畳。こちらは空家になっている住宅から持出許可をあらかじめ取っているという事。
実家を小竹浜に残しながら、息子夫婦と石巻の街中に住んでいる方からだそう。
いつも助け合って暮らしているから、大きな部屋に雑魚寝でも全くストレスが無い。
皆同じ仕事を分け合って、いつも手分けして暮らしているから異議や言い争いが無い。
避難所には各家庭から持ち寄った食べ物がありました。
高台に住む勝俣家は塀にひびが入ったものの、無事でした。
「家には米粒1つ無いんだよ。みんな全部持ってきたからね」と勝俣かあちゃんは笑ってました。
お腹が減ったら避難所に行く。お茶と漬物少々で笑ってみんなを励ます。
われ先にとスーパーで買い占めようにも、この漁村にはそのトラブルの元がありません。
皮肉にもその不便さがこの漁村の誇りなのです。
底抜けの明るさの裏側にある苦労や、高らかに響くその笑い声には様々な人間模様が存在する。
計り知る事の出来ない恐怖と不安を抱えてもなお、彼らの笑顔は消える事がない。
この小さな漁村には大きな家族なのです。
私はその中の1人として、自分のできることを一生懸命やっている。
そして私の周りには支援活動に賛同し、峩々温泉や私を助け、小竹浜を支え、元気をわけあう仲間達が沢山いる。
この度、その仲間の1人となって頂きました遊馬師匠。本当に心強く思っております。
そして、いつの日か過疎化の進むこの小竹浜がこのボランティア活動に関わるみんなの故郷になって欲しいと願うばかりなのです。
 小竹浜出身の阿部直人さん、将来はこちらの地区の区長さんになって欲しいです。横浜市保土ヶ谷から車を飛ばしてきたならび矢さんご夫妻はネギ焼き・焼きそばなどなど約100人分を焼いてくれました。ご自身でもお店でチャリティメニューを作り、支援を続けて頂いております。
 ここに集まって来た仲間の共通点は、全員自らの腕を信じて一流を志している人々。
ひとつひとつの所作に美しさがある。心がこもっている。それぞれの得意分野でみんなを幸せな気持ちにさせる。まさにプロの集団だからこそ、こうやって楽しく足を運ぶ事ができるのだと思う。
TRI4TH織田祐亮さん・関谷友貴さん。ギタリストの君塚世和さん。
ちんどんバンドのざくろからは織田陽子さん・斎藤彰子さん。
第一線で活躍するアーティストの方々には本当にお世話になりました。
帰りはせめてものお礼にと、山形県村山市で「冷たい肉そば」を御馳走しました。
寒河江のチェリーランド。ここのジェラートはめちゃくちゃ美味しいですよ!

 別れをおしみながら、みなさんを見送りました。
また来年も同じメンバーで小竹浜に集まります。

このもようは、三陸河北新報(2012.10.17)に取り上げられました。
Web版もご覧いただけます。http://www.sanriku-kahoku.com/

2012年10月12日金曜日

バンフ・マウンテン・フィルム・フェスティバル 特製ベルツホットドッグ


世界中のアウトドアファンが大熱狂し、そして最も有名なアウトドア映画祭をご存知ですか?
この映画祭(仙台公演:10/14)の会場でベルツメイドのホットドッグとサンドウィッチを販売させて頂く事になりました。
場所は東北大学 川内萩ホールです。

当日券のご購入など、詳しい事は主催しておりますパタゴニア仙台ストアにお問い合わせくださいませ。

バンフ・マウンテン・フィルム・フェスティバルは、バンフセンターで毎年11月初旬に開催される最も重要なプログラムの1つであり、世界有数の山岳フェスティバルの1つです。
今から35年以上前、登山家やアウトドア愛好者が、登山シーズンとスキーシーズンの狭間に楽しめる年中行事を探し、1976年にロッキー山脈の小さな街バンフ(アルバータ州)で開催されたのが始まりです。1日だけの登山映画際として始まったものが、今では、9日間にわたるバンフでのイベントに加えて、南極大陸を含めた全大陸をめぐるワールドツアーで、年間635回を超える上映回数を誇り、世界中で24万5千人以上のアウトドアファンに見られています。 
そんなファンの熱狂に応えるように、世界中のクライマーや映画製作者、作家、写真家が山岳コミュニティの主要イベントと位置付け、ワールドツアーでの上映作品に選ばれることを夢見てフィルムコンペティションに出品しています。その結果、第1回が開催されて以来、クライミング、登山、アウトドア、山岳文化、環境分野の5000本を超える見事な映画がアーカイブされています。過去のフェスティバルでは、ダグ・スコット、ラインホルト・メスナー、エドモンド・ヒラリー卿、カトリーヌ・デスティヴェル、リン・ヒル、ブラッドフォード・ウォッシュバーン、ガーラン・クロップ、グレッグ・チャイルドをはじめ、世界トップクラスのクライマーや探検家が多数出演しており、フェスティバルを盛り上げています。(オフィシャルホームページより)BANFF